歴史
会津本郷焼の起こりは古く、文禄二年(1593年)に城主蒲生氏郷が会津領主となってからで、若松城の大改修を行うに当たって、城郭の屋根を瓦葺きとするため播磨国(兵庫)から瓦工を招き、黒瓦を製造したのが始まりとされています。
その後、正保二年(1645年) 会津松平藩祖 保科正之が長沼(福島県岩瀬郡長沼町)から尾張国瀬戸生まれの陶工を召し抱えて、本格的な陶器の製造が開始されました。陶器の生産は藩の支援を受けて益々発展し、しかも寛政12年(1800年)には白磁の製法も開発され、幕末にはわが町の陶業は目を見張るばかりに発展しました。
しかし、会津が命運をかけて戦った戊辰戦争が起こり、陶工が藩士として出陣した留守に製陶工場は戦火にかかって廃塵に帰し、再起不能の状態になってしまいましたが、再起を誓う陶工たちが全村一丸となって努力した結果、10年を経ずして復興を見ることができ、明治中期頃には欧米各国に盛んに輸出するまでになりました。ところが、大正5年に大火が発生し、製陶工場の大半を焼失、再び窮地に立ちましたが、長い伝統の製工魂はそれを見事に蘇らせました。
時代時代の陶工たちの手によって、みちのくに根ざした素朴な美しさと使い勝手の良さの陶器、雪国に生まれた純白の肌と優雅な文様の磁器は、約360年(会津本郷焼の起こりからは約400年)もの長い時代を伝えられ、今日の会津本郷焼として広く知られるまでなったのです。
平成5年 この実績と伝承が認められ、会津本郷焼は、陶器・磁器ともに伝統的工芸品産地として通商産業省(現在の経済産業省)より指定を受けています。
年表
1593年 |
蒲生氏郷が城郭修理の際、播磨国から石川久衛門らを招き屋根瓦(黒瓦)の製造をさせる。 |
1647年 |
水野源左衛門が陶器焼成を始める。 |
1653年 |
水野長兵衛が新しく施釉の赤瓦を製作。瓦役所が置かれる。 |
1679年 |
水野五郎助が水簸法(粘土を水中でかき混ぜ、細・粗粉末を分ける方法)による陶土づくりを始め、優良な製品が作られるようになる。粗物と呼ばれる民用の瓶、片口、徳利、摺鉢などの粗陶器がつくられる。 |
1797年 |
佐藤伊兵衛が諸陶場を歴巡し、焼成技術習得に赴任。 |
1800年 |
佐藤伊兵衛が磁器焼成に成功。幕末の陶磁器業者はのべ59戸に。 |
1868年 |
戊辰戦争で壊滅的打撃を受ける。 |
1871年 |
本郷村に若山土、大久保土を発見。 |
1880年 |
陶祖・水野源左衛門と、磁祖・佐藤伊兵衛の位牌を常勝寺に安置する廟を建設。以来、毎年旧暦8月16日を期して例祭を執り行う。 |
1885年 |
五品共進会に出品して、会津本郷焼の名が世に知られるようになる。 |
1890年 |
第三回内国勧業博覧会に出品し、6名が進歩賞を受賞。「会津本郷焼」を公然と呼称し、国の内外に販路を拡張する。会津本郷焼の隆盛期。 |
1892年 |
本郷と川南に瀬戸焼の一大ブームが起きる。窯数39戸。農家の兼業形態として急増し、陶磁器業関係者数は優に1000名を超えた。 |
1894年 |
本郷陶磁器業組合を設立。 |
1895年 |
会津本郷焼の後継者を育てるため、「本郷窯業徒弟学校」を設立。(以後、福島県立会津工業高等学校本郷分校に継承され、1995年に閉校) |
1916年 |
本郷大火で町の半分近くを焼失。工場、住宅等200棟が焼失。 |
1949年 |
会津陶磁器事業協同組合を設立。 |
1958年 |
ブリュッセル万国博覧会に出品した宗像窯の「にしん鉢」がグランプリを獲得。 |
1979年 |
会津本郷焼事業協同組合に名称を変更。 |
1993年 |
通商産業省(現在の経済産業省)より伝統的工芸品の産地指定を受ける |
2020年 |
「会津本郷焼」が地域団体商標に登録 |